神戸大学大学院医学研究科|生理学分野(内匠研)

文書集

再び「研究のない医学に将来の医療はない」

July 4, 2020

兵庫県出身の私が神大医学部楠キャンパスに初めて来たのは、震災から1年経った1996年、大倉山公園にはまだ仮設住宅があったように覚えています。30代の研究者として最も大事な時期を旧第二解剖学講座の講師として過ごしました。それからほぼ4半世紀、平成最後の年に、片岡徹前教授の後任、旧第二生理学講座第4代目教授として、生理学・細胞生物学講座生理学分野を担当させて頂くことになりました。研究棟Dの研究室のある建物は、神緑会会員の寄付で建てられたと知りました。まずは会員の皆様に感謝の念を表したいと存じます。

前回神大を退職して大阪バイオサイエンス研究所(OBI)に移ったのは、世紀が21世紀に変わり、神大医学部も大学院化した年です。OBIは橋本徹元市長の失政(我々アカデミアの立場からは敢えてそう評価させて頂く)で今は組織としてなくなってしまいましたが、素晴らしい研究所でした。故早石修元理事長、故花房秀三郎元所長には大変お世話になりました。神戸から一人で大阪に行き、ゼロというかマイナス状態でのラボ立ち上げでしたが、大学にはないサポートを頂いてPIとして研究室のスタートを切ることができました。その後、広島大学医学部に移って、国立大学の置かれた厳しさを実感しましたが、医学部生とのふれあいの中で教育の楽しさも実感しました。ほどなくして、理化学研究所脳科学総合研究センター(BSI)の利根川進元センター長から理研で研究しないかという話を頂きました。米国流テニュアで65歳を過ぎてもラボを運営する可能性があるという有難い話だったので、教授職を辞めて、何の縁も身寄りもない関東にいくことにしました。脳の可塑性が衰えた中年になってから箱根を超えて、サイエンスはともかく関西人にとって日常生活その物は戸惑いの日々でした。そして、例のSTAP事件を機に、神戸の発生再生科学研究センターだけでなく、理研本体、戦略センター全体の改変が行われ、その流れの中で、BSIも私のテニュアもなくなってしまいました。酷い話です。そのおかげか、約20年ぶりに神大医学部で仕事をする機会を頂き、これまた関係者の皆様には感謝しかありません。上記のような通常のアカデミアでは経験できない様々な経験をした人間として、その経験を活かせればと思います。

神緑会会員には、学内だけでなく、全国、そして世界のアカデミアとして活躍されておられる先生が沢山おられます。基礎医学教員として、次世代を育てるために、医学部の学生さん達には、カリキュラムの内容だけでなく、「研究のない医学に将来の医療はない」という私のモットーのもと、医学部における研究の重要性を訴えていきたいと思います。神大時代に講義・実習を担当したことのある学生さん達が、今病院で働きながら研究も頑張っているのを見ると、彼(女)らの研究を盛り上げて行く必要性を強く感じました。

20年前にOBIで始めた私自身の研究は、発生(染色体)工学を使って精神疾患のヒト型モデルマウスを作ること、そしてその前向き遺伝学をやるという長大プロジェクトです。最初のモデルを論文にするのに9年間かかりました。できたマウスを使って分子(シングルセルRNA-seq)から個体(fMRI)レベルまでの多階層レベルでの様々な解析を行ってきました。そして、目標の前向き遺伝学の結果はようやく世にでるところまできました。最初のモデルがたまたま自閉症のコピー数多型(CNV)モデルだったので、またちょうどゲノム編集技術が使えるようになった時期でもあったので、BSI時代には全てのCNVのES(多能性幹)細胞モデルを作るというプロジェクトを始め、それも7年間かかってようやくリソース論文として投稿予定です。神大では、さらにヒトES細胞モデル・オルガノイドへ展開する予定で、臨床の先生方にも興味を持って頂けるテーマが組めるのではないかと思います。また、生理学教室として、我々独自のシステムとしては、バーチャルリアリティー(VR)を用いたマウス大脳皮質のネットワーク動態のリアルタイム解析があります。VR自体は世界的にも使われていますが、大脳皮質全体のネットワークをダイナミックに解析するという点はユニークです。これは生物学だけでなく、機械学習、AI等、情報科学方向への展開も考えています。さらに、OBI時代に始めた概日リズムと気分との関連研究で偶然にもレジリエンスモデルを見つけました。レジリエンスは元々心理学用語で、社会的にも使われていますが、うつ病研究の領域では、同じストレスを受けるのにうつになる人(感受性、サセプティブル)、ならない人(抵抗性、レジリエンス)がいる、レジリエンスを身につければうつにならないのではないかということです。ただ、レジリンスとは何なのか、その分子的実体は不明です。今回の我々のモデルは、分子的機構(時計タンパク質のリン酸化)のわかった初めてのマウスモデルとなります。16年間の熟成期間を経て、近く再度投稿予定です。そして、このプロジェクトに関しては、リン酸化阻害剤というリード化合物が「コロナ後」時代の人々の不安を和らげるものに発展していければと期待しています。

これらの基礎研究成果がどれだけ社会貢献できるか直接的効果は難しいところもありますが、私も研究者として長くやってきたので、もっと身近な社会貢献にも時間を取っていきたいと思います。教育・研究・社会貢献と大学の求められることは多種多様ですが、神大医学部・研究科の発展の為に、努力していく所存です。神緑会の皆様にはご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

(神緑会学術誌 第36巻 2020から)

学部生の皆さんへ

May 10, 2016

私どもの研究室が理研に移動して4年目を迎えました。研究所は勿論研究の専門家が集まる所ですが、私は大学にもいましたので、学生の教育にも興味あります。理研は日本を代表する研究所ですが、若い研究者にとってだけでなく、大学院生活を送るのにもよい所だと思います。我々独自の大学院プログラムは持っていませんが、逆に言うとどこの大学の大学院生でも研修生として参加できます。身分的には(履歴書上)、大学に所属し、実際は給料をもらいながら最先端の研究環境で研究ができるといういわば美味しい所どりしていると、(手前味噌ながら)思います。特に、我々の研究室のある和光キャンパスは、理研本部があるだけでなく、物理や化学などの生物系以外の研究者がいて、まさに大学キャンパスと変わらない環境です。ただ、多くの人にとって理研は縁遠い存在かもしれません。そこで学部生時代に夏休みや春休みを利用して理研でインターンシップ生として研究室の生活を経験してみませんか。時期、期間等は応相談です。遠方の人には宿舎等の手配もします。都内へも近いので、東京見物をかねてでもOKです。まずは内匠(たくみ)まで気軽にメール下さい。

新しい年を迎えて

January 6, 2014

昨年は広島大学から理化学研究所へのラボの移動があり、バタバタした年でありました。大学から再び研究所に戻り、講義なし会議なしの環境には最初戸惑いがあったものの最近は大分慣れてきました。一方で、予想はしていたものの学生のいない環境で如何に若い人たちを確保していくかは問題です。近い将来理研は独立行政法人から国立研究開発法人へと変わっていく予定ですが、人材育成を含めて、理研でしかできない世界レベルの仕事を目指したいと思います。関係各位皆様に対して、本年も引き続きご厚情賜りますようよろしくお願い申し上げます。

平成26年新春 内匠 透

霞に消えぬ思い:「金太郎飴になるな」「研究のない医学に将来の医療はない」

June 3, 2013

前 広島大学医学部教授 内匠 透

僕にとっては 、大学ほぼイコール医学部である。広大医学部に来る前にも、医学部を卒業して、大学院も、そして助手や講師といった若い教官時代も、2年余の米国留学(マサチューセッツ工科大学)を除いて、ほぼ20年をいろいろな大学の医学部キャンパスで過ごしてきた。8年の大阪での研究所生活を経て、再び医学部に戻ってきて感じたのは、医学部がより 専門学校化したことであった。医師国家試験の日程が早まり、CBTやOSCEといった全国共通試験が導入され、ますます医学部生は金太郎飴になっているように思えた。CBTなんぞは、本来そのために時間を割かなくてもいいような学生の方がかえって無駄な試験勉強で若いエネルギッシュな自由な時間を失っているようにみえた。 医学教育カリキュラムの重要性が叫ばれ、基礎教員の役割は、臨床医学に必要な 一定の 基礎医学教育をするという当たり前の事を 、 少なくなった授業時間の中で効率よく教えていく予備校講師の仕事のようになっていた。6年生の中には実際に予備校の授業をネット配信で受講している者も多いと聞いて、そんなものは(旧)国立大学には無縁と思っていたので驚いた。

金太郎飴になるな」:若い教官時代から学生に言ってきた。何もしなくても医学部は、授業実習等々で皆と同じようにやっているだけで、他学部と比べるとそれなりの充実した学生生活を送っているように錯覚する。卒業試験、国家試験、それに今はCBT, OSCEも加えて、普通にしていれば皆普通の医者になっていく。 入学時にはそれぞれユニークな学生も卒業時にはみんな同じ医者の卵になっている。勿論、日本の医療全体にとっては必要かもしれないが、広大医学部としては面白なさすぎるではないか。山中伸弥先生のようにノーベル賞をとる人や医者になったとしても 天野篤先生のように天皇陛下の手術によ ばれるような名医、あるいは渡辺淳一のような作家、ともかくバラエティーにとんだMDがほしいと僕個人は思っている。医者をやりながら趣味で○○という先生は結構いらっしゃるが、僕はプロとして○○に「挑戦」するくらいの変わった医学生を育てることをよしとしていたので、執行部の先生方には 認識違いでご迷惑をおかけしたかもしれない。それぐ らい外れた教育をやったと しても残念ながら今の時代なかなか豪傑にはあたらない。

僕は基礎教員の最大の役割は100人余の医学生の中から一人でも将来のMD研究者を育てることだと認識していた。自分自身が基礎の大学院に進むと決めた時、恩師の中西重忠先生からは「君は親の面倒を見なくてよいのか」と経済的な心配をされたが、今の時代、「学問するものは苦学して云々」というのは学生には通用しないのはわかっていたので、基礎をやっても臨床に負けない生活ができると見栄をはって(学生のために?)グリーン車やファーストクラスを使った(これは嫁さんからはひどく文句を言われたが)。普段の教科書の授業は準備不足な事もあり学生さんには迷惑をかけたと思うこともあるが、課外授業には最大限の時間をかける努力をした。「広島サイエンスクラブ」(実際は教授会でも正式に認められていたのだが残念ながら認識度はゼロに近い)と銘打って、放課後ごくごく一部(1名、2名?)の学生に「サイエンスとは?」を熱く語った(つもり)。
(基礎研究をやろうという)自分のような変わった学生はやはりなかなかいないと思い始めて、少し方向転換をした。こんな自分も学生時代は研究室に出入りはするものの長続きしなかったのだから、今の学生に授業の合間に研究室に出入りしろと言ってもなかなか難しいのも理解できた。自分のように一生基礎研究をやる学生を探すのではなく、臨床に行く学生こそ学生時代に研究生活を経験する必要があるということをわかってほしかった。研修システムがかわり、多くの学生が卒後一般市中病院で研修する。前期研修だけでなく、後期研修、そして専門医をとる。卒後10年以上(近く)大学を離れて臨床すると、その先にあるのは医学ではなく医療である。現在の医療を施していくにはそれも大事な事であるが、将来の新しい医療を作ることはできない。

研究のない医学に将来の医療はない」:臨床に進む学生にこそこの意味を伝えたかった。医局に入らない医者には、学生時代しか学問、研究に触れる機会はない。その意味で、最近「医学研究実習」が始まったというのはいいことだと思う。山中さんも(恐らく)医学生の時代に(故)西塚泰美先生のような一流の研究者から影響を受けたからこそ、臨床でたち止まった時に(他科への進路変更ではなく)研究という道を選んだのだと思っている(まだ本人に確認していないが)。「ちゃんとした」研究の経験のある臨床医は、研究そのものだけでなく、臨床の中でもその経験が活かされているはずである。以前は皆が入局し、好むと好まざるにかかわらず何人かは基礎教室で学位をとるということが全国的に行われていたので、医学部は地方でもいい研究をする研究室が存在していた。 ともかく 臨床に進んだ者の中で少なくとも10%くらいは何らかの型で「いいサイエンス」を自ら経験してほしいと伝えた(かった)。

今再び大学を離れて研究所(理化学研究所脳科学総合研究センター)にいる。今さら言うのも未練たらしいが、僕は決して教育が嫌いではなかったので、若い学生と触れ合う機会がなくなり、寂しい思いをしている。「医学研究実習」の学外研究室として、再び広大医学部の学生さんを受け入れるのを楽しみにしている。また将来 広大から金太郎飴医者ではない医者がでてきてくれることを心底期待している。

私の座右の銘の一つは「邂逅」である。 一緒に霞に来た学生よりも 僕が先に卒業?してしまうという 短い期間ではあったが、 霞で広大医学部で 、そして広仁会では様々な 出会いがあった。この出会いを大事にしてこれからも 微力ながら広大医学部を応援していければと思う。皆様本当にありがとうございました。

(広仁会会報 第84号, 2013から)

久しぶりに大学医学部に戻って

May 3, 2012

というタイトルで何かを書かねばと思ってはや3年以上が経ちました。前任地(大阪バイオサイエンス研究所)は研究所だったので、百パーセント研究に打ち込める環境にありましたが、今は大学医学部のしかも解剖学教育担当の基幹講座。科研費のエフォートは勿論5%や10%ですが、以前は複数の研究費をもらうための仮の数字だったのが今ではまんざらうそではない本当のエフォートになりつつあります。大学は法人化後、予算の削減に加えて、外部資金獲得のさまざまな事務作業までが増えて、また形だけの大学院化は、(実質的でない)会議の数を増やすだけで、教授職は(面白くなく)つらいものに思えます。大学に求められている研究、教育、社会貢献に対して、いろいろと頑張ろうとすればするほど、こうやってゴールデンウィークもなく、締切の(を過ぎた)書類におわれ、疲労困憊の毎日を過ごすことになります。さらに、医学部は臨床研修義務化の流れの中で、臨床、基礎ともに大学は若い人にとって魅力のない存在になりつつあります。教員は勿論事務の中にも一生懸命頑張っておられる方も沢山おられます。しかし、未だに“公務員”という化石的な構成員がいる事も事実です。この矛盾のある機構の中にあっても、「学問は最高の遊びである」というモットーのもと、それでも学問を楽しむ学者になりたい、と思う気持ちだけは忘れないでいたいと思います。そして、研究所にはない大学最大の長所として、多くの学生が魅力に思える研究室にしたいと思います。

内匠 透

医学部学生の皆さんへ:金太郎飴になるな!

April 12, 2012

入学おめでとうございます。皆さんは今大学生です。これまでの生徒とは違います。皆が学ぶ場所は大学です。学校と呼ばないで下さい。まずは、「生徒と学生」「学校と大学」の違いがわかる人になって下さい。ただ、医学部は好むと好まざるに関わらず、授業や実習が一杯あって「普通」にやっていれば結構忙しい大学生活になります。しかし、流れにまかせた毎日では皆同じ(金太郎飴の)ような「医学生」になります。入学してきた頃はそれぞれ個性があったのに、(意識しないと)卒業する頃には皆同じ普通の医者の卵になります。勿論、日本の地域医療のためだけにはそれでもいいのですが、全員では困ります。(全員が)そうならないために、大学6年間で「これをやった!」と言える何かを作って下さい。勿論、学問(勉強ではない;「学問は最高の遊びである」by広島大学)でもいいのですが、そんな堅い?ことを言いません。何でもいいです。スポーツでも芸術でも語学でも旅行でも遊びでも何でも。何事も一流を目指す!ともかく、他人に自信をもって言える学生生活の何かを見つけて下さい。

内匠 透

ヒトのココロを解剖する。

October 12, 2011

(HU-style 28号, 2011)

教室だより 【統合バイオ】

September 12, 2011

(広仁会々報 第81号, 2011)

分子生物学から疾患生物学へ

September 12, 2011

(分子精神医学 vol.11, No.3, 2011)

新しい10年に向けて

April 3, 2011

私の研究室ができてから10年が経ちました。21世紀になったばかりの4月1日に北摂の 吹田にある大阪バイオサイエンス研究所において4人でスタートしました。私の当時の状況からはゼロからというよりはマイナスからのスタートでしたが、当時 の故花房秀三郎所長をはじめ多くの先生方のご援助、参加してくれたメンバーのおかげで、「100%研究三昧」の中で何とか研究室を立ち上げることができま した。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」精神でユニークな研究を目指してきたつもりです。ただ、質量とも決して満足できるものではなく、さらには折角データ や材料がそろって“さーこれから”という時に研究室を移動することになり、特に後ろの2年間は再び戻った大学医学部で、「大学の先生の毎日」の中で研究に 時間がとれない自分に焦りといら立ちを覚えることも多い日々でした。昨日の簡単な10周年記念の会には、現在のラボのメンバーに加えて沢山の医学部の学部 学生も参加してくれ、私の座右の銘の一つ「邂逅」を紹介しました。今後の10年は、論文の質量ともに先の10年を超えるだけでなく、より多くの若い人達が これからの研究に参加してくれることを目標としたいと思います。特に大学の利点を活かすため、次の10年を一緒にやってくれる若い学生さんとの「邂逅」を 楽しみにしております。私どものラボ、研究に興味のある方々からのご連絡お待ちしております。最後になりましたが、引き続き各方面の方々には、ご指導ご鞭 撻賜りますようあらためてお願い申し上げます。

内匠 透

「努力」という言葉が消えていく・・・

September 12, 2006

今年のはじめのニュースで、好きな言葉ベスト10とか何とかいう話題を聞いた。早く文章にしようと思っていたが、今年も早くも半分が過ぎようとしているので、記憶の方も定かでなくなってきた。ともかく、今覚えているのは、「努力」という言葉は最近ずいぶんランキングを落とし、「根性」に至ってはだいぶ前からランク外だった。昔?我々の若い頃は、例えば修学旅行等で旅行に行くと観光地には、例えば、鳥取砂丘や天橋立・・・どこでもいいがともかく当地の名物の置物(だいたい木製の置物の類いすら最近は少なくなっているが)には「努力」とか「根性」と書いた札がついていた。テレビアニメにしても、「巨人の星」や「アタックNo.1」など根性ものが多く、夢に向かって「努力」するということが常識(美徳)であった。それが今や若者は「楽してそこそこの暮らし」(楽して大金持ちではない)を求めるものが多い。我々の実験生物学においても、かつて人気の分子生物学は、今やブルートフォース(力仕事)をいやがる若者には3Kの職業に近くなりコンピューターを使ってシステム生物学・・・この流れ自体は決して否定しているものではないが。精神論だけでは何ともならないのも事実かもしれないが、精神論がないとどうしようもないのも事実である。大学院生やポスドクは、「プロ」の研究者になるためのトレーニング期間である。プロのスポーツ選手、例えばプロ野球選手にしたって、その中学、高校時代のトレーニング時代は自分の生活100%が野球の時代があったはずである。世間が土日やゴールデンウィーク、夏休みや正月であっても野球漬けの毎日であったはずである。イチロー選手のような超一流になるためには「努力」に「能力」が必要だろうが、「能力」だけではないのは明らかである。「能力」が普通でも「努力」すれば、超一流にはなれなくとも一流には慣れる可能性は(若者には)ある(と思いたいではないか)。とにもかくにも、何が何でもやり遂げる「努力」、夢に向かって「努力」することが失われていくことほど悲しいことはない。故沼正作先生は「努力は無限」と言われた(そうな)。あんなに優秀な先生ですら「努力」されていたのだから、我々が「努力」しないでどうする!

内匠 透

1日遅れのクリスマスプレゼント

September 12, 2006

(細胞工学 vol25, No7, 2006 一枚の写真館から)

大学院2年のことである。昭和62年12月24日、クリスマスイヴの夜午後11時05分、魚臭いカエル部屋でアフリカツメガエルの卵へのRNAのインジェクションがいつも通り終了した。何ヶ月間も卵に打ってはアッセイする繰り返しの連続も結果はネガティブ続きで、私は流石に心身ともに疲れていた。今回だめなら、気分転換のつもりで実家に返って正月をゆっくりするつもりだった。12月26日、アッセイをはじめて3時間以上が経過した午後8時05分、思わずつぶやいた。「でとる」(図HindIII-NotI1矢印、左隣の3はネガティブ、右隣の2は再現性あるポジティブ)1日遅れのクリスマスプレゼントだった。数えきれないくらいのネガティブを見てきたからこそ、「これは違う」という確信がもてた瞬間だった。この夜の感動が、未だに私をサイエンスに駆り立てている。明けて63年の正月を研究室で迎えたことは言うまでもない。

図(背景)解説:当時、京大医学部中西研では、卵母細胞発現系と電気生理学的アッセイを組み合わせた発現クローニング法が立ち上がりつつある頃であった。これにより、膜蛋白質を精製する事なしに直接cDNAクローニングすることができた。cDNAライブラリーからcRNAを合成し、卵母細胞に注入して、膜電位固定法によりアッセイするというものである。何故か膜電位を0mVに固定するという、当時の電気生理の知識のなさが、思わぬ発見を生んだ。結果的に脱分極によりゆっくりと活性化するチャネル活性を見つけたことになる。当初何かわからぬ現象(ふわふわとして!安定しない基線)は、大久保先生の多大なる助けもあって苦労しながらもクローン化でき(Isk, KCNE1)、私の学位の仕事になった。今やヒト不整脈(QT延長症候群)の原因遺伝子として知られ、III型抗不整脈薬も開発されている。何かと応用化が叫ばれる昨今、基礎医学(研究)は重要だとあらためて思う。

内匠 透

精神疾患はRNAの異常?

July 12, 2006

(RNA Network Newsletter, 5, 1, July 2006から)

例のごとく?塩見さんからRNAニュースレターに何か書いてくれないかというメールが届きました。特定領域「RNA情報網」の公募には毎回出したものの最後まで班員に入れてもらえなかったので、果たしてどうしたものか???とはちらっと思ったものの、塩見さんからの依頼とあれば断る訳にもいかないということで、恥じを忍んで書かせてもらいます。ということで、今はアメリカ出張中で、朝フロリダのローカルな空港を出てアトランタの空港で遅れた!飛行機を待っている所です。アメリカのミーティングに来ると(残念ながら)いつも世界は進んでいる事実を実感しますが、それとは別に、今朝空港へ来る途中アメリカの中国系ポスドクからおもしろい言葉を聞きました。「今回のミーティングでは、日本人の若いPI(Principal Investigator)がたくさんトークしていたのに驚いた。」確かに、今は若くしてPIになることが当たり前の話になってきました。世の中のあらゆるシステムはアメリカ化していて、サイエンスのシステムも遅ればせながら変化が見えてきました。はずかしながら私は、アメリカポスドク時代、当時の日本の大学院時代にはPIという言葉を聞く事はなかったので、例えば研究所のリトリートで、ポスドク達が集まってPIに関して真剣に議論をしているのを聞いても、私にはそもそも何を問題にしているのか最初は全く理解できなかったのを覚えています。我々の世代は、アメリカでポスドクをやって帰ってきても、30代前半ではPIのポジションはほぼない状態で、助手、講師、助教授とPI(=教授)になるための「下積み」をつむのが「当たり前」の話でした。この期間が短ければ短い程アクティブな状態で教授になれ、長ければ長い程サイエンスに対する情熱はさめていくような法則であったように思います。ついでに、愚痴を並べるなら、昔は40代の教授は若手でしたが、今や若手でない。事実研究費も出すものが(ほとんど)ない状況であります。いわゆるかつてのヒエラルキーのシステムからフラットなシステムに移行する過程で、40代(前)後の世代は失われた世代と言えます。ごく一部の優秀な研究者を除いて、自らがまさに若い時は、教授のために(下)働き、ようやく自分がPIになった頃には、若手にチャンスをという具合です。結果的に、現在の若い人にチャンスを与えるシステムはよいシステムであろうし、その事を否定している訳ではありませんが、何とも納得できないのは正直な所です。まあ、そんな愚痴をたらしていても前には進まないし、ボーディングのアナウンスが始まったので、このあたりでやめにしますが、少なくとも今後は、逆にアメリカのように単に年齢では差別しないシステムに成熟してほしいと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、ようやく機上の人になったので(アメリカの住宅を空からみるといつみても豊かだなと思うのは日頃ごちゃごちゃしている所に住んでいるせいでしょうか)、気分をかえて少しはサイエンスの話に移りたいと思います。塩見さんからは何でもいいという事でしたが、読者はほとんどの人がRNAを研究している人でしょうから、RNAに関する話題にしたいと思います。いきなりですが、「精神疾患はRNAの異常である」という仮説は大胆過ぎるでしょうか。流石に現時点では、言い過ぎのように私にも思えますが、「精神疾患はスパインの異常である」という仮説に基づいて私は仕事を進めています。もっともこの程度の仮説もこの間トークの中で使うとある精神科の先生からは言い過ぎだと言われましたが。これから少し説明したいと思います。神経細胞の細胞生物学的特徴は、極性があることと局所翻訳が存在することです。発生学的に神経細胞は上皮細胞と同じであることを考えると当たり前だと言えば当たり前ですが、面白い事実であることに変わりはありません。局所翻訳は、いわゆるシナプス可塑性の分子的基盤と考えることができます。すなわち、神経系シグナルの入出力に必要なシナプス、それを形成するスパイン近傍での蛋白合成が重要な役割を果たしていて、その異常がスパイン、さらにはシナプスの異常をきたし、結果として、(これまで器質的障害がみられないと言われてきた)精神疾患をきたすと考えることができます。我々は、統合失調症の薬理学的(PCP誘導)モデルマウスを用いて、RNA結合蛋白TLSを同定しました。TLSは神経細胞樹上突起及びスパインに存在し、グルタミン酸シグナル(mGluR5)依存性に樹上突起からスパインに移行することを明らかにしました(Fujii et al., Curr Biol, 15, 587-593, 2005)。また、このスパインへの移行にはアクチン系のモーター蛋白であるmyosinVが関与し、酵母の非対称分裂(にはRNA分配が必須である事)と同様のメカニズムが働いていることを最近明らかにしました(Yoshimura et al., revised)。TLSの標的RNAとして、アクチン安定化分子であるNd1Lを同定し、Nd-1Lが確かにスパインの形態維持に必要であることを報告しました(Fujii and Takumi, J Cell Sci, 118, 5755-5765, 2005)。すなわち、TLSはNd-1L等のRNAを樹上突起スパイン近傍に輸送し、スパインの形態維持に関与しているのではないかという仮説が考えられます。現在、それらが実際に局所翻訳に関与していることをイメージングの手法を用いて示そうとしております。さらには、神経細胞樹上突起に存在するRNA、RNA結合蛋白はNd-1L、TLSだけではないので、これらの分子を網羅的に解析することにより、神経細胞における局所翻訳の意義を明らかにするというのが、本特定領域での公募提案だったのですが、残念ながらあまり評価されていないようです。バッテリーがそろそろなくなってきました。それに時差ボケがまだ残っているのか眠たくなってきました。次回のRNAワールド?班にはぜひ仲間入りさせていただけますようお願いして結びとしたいと思います。飛行機をおりると懐かしいボストンです。

内匠 透

平成17年度特定領域研究統合脳冬の班会議印象記から

December 26, 2005

小田領域内広報委員長の方から班会議の印象記をということでしたので、気楽に書かせていただきます。

「この歳でポスターはいややな」と思っていたところ、「担当者による発表内容の評価結果が、次回の公募研究採択に反映する場合もあるということをご考慮の上、臨まれますよう宜しくお願いいたします」という貫名領域代表からの事前の連絡で、多少の緊張感をもって厳しい寒さの中東京に参りました。会場(学術総合センター)はこの夏に行われた京大大学院説明会の東京会場と同じだったので、(その折神保町の駅から女の子について行き間違って「共立女子大学」に入ってしまったような事もなく)迷わず着きました。基礎医学出身の私にとって、病態脳(第5領域)ははじめてで、前の先端脳の時から近づき難い「病気」の領域でしたが、皆さんよい(?)人達でした。発表形式は、全員(もらっている研究費総額にかかわらず!)5分間の口頭発表とポスター発表でした。「5分で何が話せるんや」と思っていたものの、限られた時間(日)の中で、全班員がどんな事をしているかをとりあえず知ることができ、また、最終日午後の全体のもあわせると合計5回にわたるポスターコアタイムは、お互い(当たり前ですが、知っている人、知らない人が)直接話をすることができる貴重な時間となりました。A01(アルツハイマー病、パーキンソン病)、A02(ポリグルタミン病など)の2班は数も多く、いわゆる神経疾患で、先端脳の時代も含め過去十数年間でその原因に関してはかなり研究も進み、今回の発表では、内容的には、メカニズムのディーテイルにはいっているもの、治療法を目指すものが大半で、「これでもかこれでもか」という感じでした。一方、私の所属するA03(機能性精神疾患)は、数が少ない上に、まさに様々なアプローチ、対象があり、「物足りない」印象を受けたのも事実ですが、生物学の研究領域としてまさに今成長を実感できる時期であると感じたのも事実であります。ただ、この事実を統合脳全体の班員の方に充分知っていただけなかったかもしれないのは、ポスターの場所が隔離されていたからではないかと思います。第1領域や第2領域のポスターは、言わばメインストリートに飾ってあり、黒山の人だかりにびっくりしました。最終日午後の全体のポスター時間になっても、他領域をみに出て行く人より新たに他領域から来る人の人数が少なく感じたのは、内容の問題というより場所の問題であったのではないでしょうか。実際、帰り際に会った他領域の班員の中には、「そんな隠れた!場所でもやっていたんや」という残念な声も聞きました。

さて、少しはサイエンスの話もいれようかと思いますが、折角いただいた機会なので、ポスターを見ていただけなかった班員の方々に我々の仕事をさわりだけ紹介致します。精神機能の分子的アプローチの問題点は的確な定量的アッセイ系の欠如です。よって、候補遺伝子の遺伝子操作マウスを作製しても、それをヒト疾患と診断するすべがない訳で、あくまで”putative” modelで終わってしまう現状です。また、現象を分子に置き換える上でもっともパワフルなアプローチの一つは遺伝学ですが、この領域の変異(精神疾患)の場合、診断はヒトでしかできないので、ヒト遺伝学が当然重要になります。しかしながら、精神疾患は、病気自体の多様性、偏見、あるいは血液生化学データや画像といった客観的診断法の欠如等のために、(特に日本では)ヒト遺伝学的研究にも様々な問題点があります。この閉塞状況の中で、現在取りうるアプローチとして、我々が行ったのは、最新のゲノム工学の技術を用いてヒト生物学(染色体)異常をもったマウスを作り、前向き遺伝学のファウンダー(本当は自然発症のマウスもいるのでしょうが見つけるすべがない)、ヒト疾患のスタンダードモデルとして解析するというものです。具体的には、自閉症の細胞遺伝学異常としてもっとも多いことが知られているヒト染色体15q11-13領域の重複をマウス相同領域に作ります。すなわち、6Mbpにわたるマウス相同染色体7c領域をCre-loxPシステムを用いて重複させたマウスを作製する事に成功致しました。行動解析をはじめ、さまざまなアプローチを、かつシステマティックに行っています(あるいは行う予定です)ので、今後も班員の方々との共同研究を積極的にすすめていきたいと思っております。貫名領域代表が、統合脳発足時に言われた「機能性精神疾患研究のフロンティアとなるべき研究」を目指して頑張りたいと思いますので、よろしくお願い致します。

郵便局から取り戻せ

September 12, 2005

(「中西重忠研究室:24年の歩みと集いし人々 中西重忠教授退職記念事業会 2005年」から)

中西重忠教授退職記念誌ということで、どれくらいオフィシャル度を要求されるのかも確かめずに本音でぶつかりあった中西研らしく思いつくまま書いていきますので、以下論理的でない点(よく注意されました)や無礼がありましたらお許し下さい。

私は中西研在籍5年半ですが、私の17余年の研究人生の中でも、中西研での経験は時間以上のかなりの部分を占めています。大学院1年生の春、4月も半ばになって自宅でごろごろしていたら「いつからくるんや」という中西先生の電話であわてて研究室にいった初日(昭和61年4月14日)、京大西部講堂で火事がありました。黙考しながら廊下をぺたぺたと歩いておられた中西先生が4階の廊下からその火事を見つけ「火事や!」と叫んでおられたが、他の先輩達は一向に実験室から出て行かない。教授の言うことは聞くもんだと馳せ参じた私は、ちょうど4階から見下ろす道をアタッシュケースに帽子姿でさっそうと本庶佑先生が通勤されてくるのを見かけました。中西先生「本庶、火事や!」。本庶先生は振り返ったもののそのまま医化学教室の玄関へとはいっていかれたのが、初日の朝の出来事としてつい昨日のように思い出されます。

私が大学院生としてはいった年は、留学前ということで、中西研一期生の中で那波宏之、影山龍一郎、高垣吉男、各先輩方と単期間オーバーラップする幸運にも恵まれ、当時皮膚科にもどられていた田中俊宏先生からは、中西研では一日でも長く同じ釜のめしをくった人間がえらいんだからという逆説的な?説明を受け、中西研での大学院生活をスタートしました。

学部学生時代に何も実験らしい実験をしてこなかった私は、当時助手をされていた大久保博晶先生から遺伝子工学のイロハ、ABCを教えていただきました。その後、高血圧モデルマウスの作製というテーマのもと、中西研サザンオールスターズの桑田佳祐役として最長1年3ヶ月間サザン三昧の日々を送りました。当時は技術の進歩!でマウスのしっぽからちょうど一週間で結果がでるというサイクルで、「恐怖の」週末便と称して、川崎の実中研から金曜日夕方か土曜日にしっぽが送られてきました。最後には、しっぽをたたく木づちで「三回転半ひねりたたき」くらいのオリジナルプロトコールが完成しました。中西先生には一度だけ見ていただいたのですが(絶対覚えておられないと思いますが)、その時に限り失敗しました。「アホか」の一言。

その長い苦労の甲斐あって、学位の仕事としては「結果的に」非常に面白いテーマ(アフリカツメガエル卵母細胞系でチャネル活性を示す膜蛋白のクローニング)をいただきました。最初は訳のわからなかったフラクションが、今ではヒト疾患の原因遺伝子としても知られているカリウムチャネル複合体の一つで創薬にもつながる分子になっている事を考えると、やはり“基礎研究は大事”と実感します。また、一時期、中西研のほとんどの人がこれに関するテーマをやっていたことがあるというのは、私しか覚えていない事実かもしれません。その詳しい内容の記載は別に譲るとして、この時の一連の仕事、経験は、私にとって忘れられないものとなっています。来る日も来る日もスクリーニングでポジティブが得られない日々が続き、もう(半分)あきらめかけていたある日、昼でも暗いカエル部屋の片隅で「なんかちゃうわ」と思った瞬間の興奮は、未だにサイエンスを続けられる根幹になっている気がします。ものすごい数のネガティブを見ていたからこそ見過ごさなかった「ネガティブではない反応」だったと自負しています。

今では学生やテクニシャンにも想像できないですが、苦労した約500bpのシーケンスも終え、これまでにないチャネルタイプ(構造)ということで、この図さえ確認できればNature投稿という期待と不安の中、その最後の実験をやっていたのが3年生の(世間でいう)ゴールデンウィークの最中でした。温度や湿度が高くなり、発現のいい卵を見つけるのに苦労している時期で、いいのを見つけると徹夜をしてでもその日のうちにデータをとってしまわないといけない状況だったのは事実です。また、当時電気生理の経験の乏しかった頃で、電気はノイズになるからとカーテンをしめた部屋で電気を消してまさに真っ暗な中で一人レコーダーに向かっていました。今でいう「ひきこもり」状態です。投稿前の仕事ということで中西先生も気にされていたのか、帰宅される前に、めずらしくカエル部屋までこられて「どうや」「・・・」「明日までに○○やってくれ、そしたら出せるから」と言われました。一個に要する時間(幸か不幸か他のチャネルと違って活性化するのに極めて時間がかかり一個のアッセイに30分から1時間かかっていたので)を考えると問題がおこらなくて順調にいってもどう考えても明日までに間に合わない。ただ、私も若かったのか、一人真っ暗な中でレコーダーに向かう徹夜でも全然眠くはならず、たいしたトラブルもなくデータをとり続けました。時計の時間を見てわかった次の朝、中西先生が再び来られて「まだやってんのか」とめずらしくおほめの言葉をいただき、後にも先にもほめられたのはこの時だけだったかもしれません。

「中西ヨットスクール」(当時でも異常な?厳しさの象徴であった「戸塚ヨットスクール」にならって)並みの「やる気がないなら荷物まとめてでていけ!」とお叱りを受けたりした厳しいペーパーワークの後、やっとの思いで論文を投稿して、その日はめずらしく(!)四条界隈まで飲みにいって夜中に帰ってくると、当時一緒に住んでいた妹が「京大の中西先生から電話があって明日朝早く来るようにと」と言うではないか???今なら携帯でもっと簡単につかまったと思いますが。二日酔いもふっとんで早朝教授室まで行くと先生は既に来られていて、教授室でやや、いやかなり不機嫌そうな様子でタバコをくゆらせながら「コーヒーをいれてくれ」。しかし、普段コーヒーを飲まない私はどうやっていれればよいかを聞く人(秘書さん)もまだきていなく困ってしまってわんわんわん!?先生が言われるには「まったく新規のシーケンスなので心配になった。今からなら中央郵便局に行けば取り戻せるのでもう一度確認する」。実験室から失敗したのも含めてありとあらゆるシーケンスのフィルムを持って来て、早朝の教授室で「ATGC….」と読み合わせをしました。今の学生にはどういう作業かもわからないかもしれませんが。勿論、片ストランドが終わったら、反対からということでしたが、もし、間違いや不明な所があったらどうしよう、「ほんまに郵便局に走らなあかんのやろうか」とまさに心臓が爆発する感じで、130アミノ酸の小さい蛋白やからよかったものの沼研(故沼正作先生)のNaチャネルやCaチャネルのようなでかいもんなら(とりにいっても)間に合わんやんという冗談めいたことは後で振り返るのが精一杯でした。先生のサイエンスに対する厳しさを実感したのは勿論ですが、今(オンライン投稿)だったらどうなったんでしょう。

これはほんの一例ですが、中西先生には「サイエンスとは」という薫陶を実践で言葉で受け、研究者としてのさまざま基本を学びました。そのことは、私が未だサイエンスをやる原動力になっているのは間違いありません。さらに、中山和久、垣塚彰、川上秀史、寳子丸稔、益康夫、筧善行の諸先輩初め、同輩後輩を含めた研究室の皆からも実験の技術的なことから社会勉強に至るまで沢山のことを学びました。午後9時頃を過ぎるとスタッフの先生方も帰宅されて、それからの時間は違った意味で「サイエンティフィックに」充実した得る所の多い時間帯でした。「(午前)3時のおやつ」もなつかしいです。当時の同じ釜のめしをくった仲間達と話をすればどんどんまた違う思い出がでてきます。あと余談ですが、長い間研究室の「幹事」を務めた思い出として、30人近くになったラボの人達の二次会として、「チョコパフェ」を食べる喫茶店を探すのに毎回苦労しました。30余人の変なにいちゃん、おっさん連中が(当時二期生以降大学院生には女性はいなかった)並んで「チョコパフェ」を食べる風景はまさに異様!!話は戻りますが、京都の街、京大の雰囲気、そして何よりも研究室の中では教授も学生もないという自由なサイエンスをする雰囲気は“すばらしい”の一言につきると思います。この事は中西研を出ていってますます実感するところです。一方で、「ごくたまに」怒ると出て行けとも言わないのに勝手に荷物をまとめて出て行く大学院生のいる自分のラボではたしてどこまでこの雰囲気を作れるのかと自問自答の日々です。

このすばらしい研究室を築かれた中西先生にあらためて尊敬の念を申し上げますとともに、その一員に加えていただいたことを大変有難く思っております。現在物理的に近くで仕事する関係で、幸運にも早石修先生にも直接お話させていただく機会がありますが、研究者として現役でますますお元気です。中西先生は京大を退官されるといっても、これからまだまだ一仕事も二仕事も大きな仕事をされ、ますます発展させていかれることは間違いなく、今後とも相変わらずご指導いただけますようお願い申し上げます。

内匠 透

最近の若者は・・・

September 12, 2004

「最近の若者」はという言葉を使い始めると年をとったということになるのかもしれないけれど、あえて考えてみることにしました。まずは身近な大学院生から。最近、日本でも大学の大学院化にともない大学院生の数は増えました。そのことはよいことですが、本当に日本のサイエンスの裾野は広がっているのでしょうか。大学院も大学同様大衆化しているのではないかと危惧します。大学院生ともなれば、前向きな態度attitude、passionが重要なことは言うまでもありません。

OBIの名誉所長(現理事長)の早石修先生は、京大の退官講演の中で、研究者にとって大事なことは「運・鈍・根」だと述べられています。確かに研究に限らず、「人生は運や」と思うことは多々あります。今この時、今日一日のやるかやらないか(どちらを選ぶか)の判断の積み重ねが人生です。研究においても、その通りなんですが、その「よい」運を呼ぶためには運に出会う機会をもっていなければなりません。我々は基本的に(というのも最近バイオインフォマテイクスなるベンチで実験しない人種もでてきたので)実験科学をやっている訳ですから、ベンチで実験をしなければ「よい」運にも出会えません。前にも言ったように、研究者とは自分の好きなことを職業にもてる人で幸せです。しかし、職業とするからにはいわゆるプロフェッショナルであるべきで、プロになるためには修業が必要です。大学院生の時代はその最初の専門的トレーニング期間です。よって、大学院の生活とは、一日24時間、一週間7日、一年365日を、ベンチを中心にした生活で送れるかどうかです。寝たり食べたりするのは勿論、時には「外」で遊びたいこともあるかもしれませんが、終わればベンチに戻ってこれるかどうかです。よくアメリカ(米国)との比較をされることがありますが、私の見てきた経験からも米国と日本の大学院の違いは、自分から進んでやるかどうかが大きい違いだと思います。勿論、人により、研究室により異なってきますが、一般論として、日本はどちらかというと徒弟制度的なところがあって、助教授、講師や助手などいわゆる中間管理職スタッフに何から何まで面倒をみてもらって、手取り足取り教えてもらうという感じです。

アメリカはといえば、私がいた研究室にいたのが、ハーバードメディカルスクールのMD-PhDコース或いはMITのPhDコースの学生といったアメリカの中でもいわゆる優秀な学生だったのかもしれませんが、彼らは誰に教えられるでもなく(当然のことながらラボにはポスドクしかいないのでボス以外は面倒を見てくれませんし、ボスは細かいことは何も教えてくれません)、まさに見様見まねで実験をしていました。端から見ていても、最初は明らかに「けったいな」ことをしているのですが、でもそんな中からも自分でともかく考えるというやり方が身に付いているように感じました。よく言われることですが、follow up型の人を育成するには「日本」式が効率よくてっとり早いですが、creative型の人を育てるにはやはり「米国」式も必要かと思います。私としては、自分の研究室では、欲張りですが、日本のいい所とアメリカのいい所の両方を取り入れればと思っています。やる気があり、自分でいろいろとできる人には、私はその成長を邪魔しないスタンスをとるのが一番と思っています。一人でも多くのそんな人がやってきてくれたら楽しいだろうなぁと思う訳です。

次は、大学生の番ですが、大学を離れて3年。大学生と直接接する機会が減ったので、ずーっととばして小学生。最近は、理科離れともよくいいます。或いは、それこそ「最近の若いもん」を含めて小学生までも夢がないともいいます。これらは、やはり、初等教育の問題、大人の問題だと思います。大学の先生は質的に問題があっても学生にさほど影響を及ぼさないですが、小学校の先生は重要です。生徒は先生の良きも悪しきもすべてを吸収していきます。本当のサイエンスを知らない先生には本当のサイエンスの面白さはわからないのではないでしょうか。ゆとり教育と言われて久しいですが、土曜日学校が休みになっても、結局休みが増えただけで学ぶものが多くなったとは思えません。サイエンスに限りませんが、週に一回、月に一回、あるいは年に数回でも、本当にその道のプロから何かを学ぶということが大事なのではないかと感じます。多くの子供にとって、プロ(将来の夢)とは野球やサッカーの選手しか知らないのが現状ですが、それ以外の道にも当然「夢」のある仕事があります。サイエンスに興味のある子供を作るために我々も何かをすべきかと思います。ノーベル賞をもらった偉い先生方だけなく、もっと現役の研究者が真剣に考えることが、ひいて将来のサイエンスのためにもなるのでは。子供の教育は「夢」を与えることです。そうすれば、後は自分で自分の前向き人生を歩んでいきます。

内匠 透

「夢」

September 12, 2004

私はモノゴコロついた時から阪神タイガースファンです。読売がV9を達成した最後の年に、129試合目引き分けでも優勝のナゴヤ球場(ドームではありません)での試合に、中日に相性のよかった上田次郎ではなくエース江夏豊をたてて中日星野仙一に負けた阪神を応援するために、会社を休んでいた親父が、次の日最終の130試合目で今度は読売にぼろ負けした後もうろうとしていたのを今でも鮮明に覚えています。まあ、この事実を知っている人はそれなりの年齢の人ですが。当時は高度成長期の日本で野球をみるために会社を休むというのも極めてめずらしかったのでないかということとそもそもそんな大事な試合をなんで昼間やっていたんだろうと未だに不思議に思っています。このように両親ともが阪神ファンであった私は自然とそうなりました。これは環境なのか遺伝なのかは別にして(環境に決まっているやろと決めつけるのはよくないかも)、昨年はあの?星野監督のもとで18年ぶりに優勝しました。その前の優勝の時、私は医師国家試験の勉強をしていましたから、社会にでて18年たったことになります。阪神が優勝すると景気がよくなるとか、優勝した年には云々とか、言うけれど、結局はたまにしか優勝しないから、記憶が条件付けで覚えられて鮮明になるということでしょう。さて、えらい長い前置はさておいて(いつものくせですが)、その星野監督が昨年よく使った「夢」という言葉は私も好きです。我々の仕事は知的ロマンを追い求めることであり、常に「夢」を追いかけたいと思います。

内匠 透

私にはいいなぁと思う職業が…

September 12, 2003

私にはいいなぁと思う職業が三つあります。一つは野球やサッカーの「プロのスポーツ選手」で、彼らは厳しい練習をしていますが基本的に好きなスポーツでお金を稼いでいます。もっともその道で一生食っていけるのはごくわずかの人ですが。私は能力的にとっくの昔にあきらめざるを得ませんでした。二つ目は音楽家や画家などの「芸術家」です。彼らも好きなことでお金を稼ぎますが、これとてなかなか厳しい世界でもあります。私は中学くらいまで無謀にもその夢もありましたが、能力的に断念せざるを得ませんでした。で、最後に残ったのが「科学者」です。我々もまさに日夜研究に勤しむ訳ですが、これとて(教育や臨床でなく)研究だけでお金を稼ぐのは難しいものです。ましてや、多少研究で飯は食えるようになっても「前二者」の成功者に比べれば、その報酬はしれたものです。勿論、今や研究の世界も一昔(といっても日本ではつい最近)と違って、頑張りさえすれば、研究者そのものもそれなりの給料を獲得できる時代になりました。このことはまた別の機会にお話するとして、いずれにしても研究の世界には、金を抜きにして仕事が「面白い」と思えることが原点であると思います。また、その研究を発展させるためには、若い”passion”のある人がどんどんこの世界に足を踏み入れることが大事だと思います。

私は結構小さい頃から(医学生物に限らず)何かの研究者になりたいと思っておりましたが、紆余曲折あって医学部に入りました。臨床医へのノスタルジーがまったくないといえばうそになりますが、結局今のところ基礎の道に留まっています。大学院で中西重忠先生(現京大大学院教授)から生化学・分子生物学の指導を受けたのみならず、サイエンスに対する基本的考え方を洗脳?されました。ピペットマンの持ち方から始まって分子生物学的手法のイロハを大久保博晶先生(現熊本大学医学部教授)から教えていただいたのをはじめ、中西研の先輩、同輩、後輩、さらには共同研究先のさまざまな人たちからいろいろ学びました。ポスドクとしてHarvey Lodish先生(MIT教授)のもとでは、サイエンスをエンジョイすること、そしてサイエンスにおける自由の大切さを学びました。これら研究者としての修業時代の一つ一つが今でも研究を続ける有形無形の力(意欲)になっていることは間違いありません。前ふりが長くなりましたが、我々の研究室は「脳機能の分子的基盤」ということで研究をすすめております。私自身は(クリーニング屋でなく)「クローニング屋」として教育を受けてreverse geneticsの考え方で研究を行ってきましたが、ヒトゲノム計画の全容が明らかになろうとしていた頃、自分の研究の進め方にもっとforward geneticsの考え方をとり入れる重要性を感じました。そして、脳機能の単純な系として、最初に取り組んだのが「生物時計の分子機構」です。

今や哺乳類の時計遺伝子も数多く同定され、基本的に転写調節の問題に帰着することもわかってきました。末梢にも時計機構が存在することで、1)通常培養細胞を用いた生化学・細胞生物学的解析ができる点、2)動物の行動24時間リズムの測定という定量的アッセイ系をもつという点、さらには、3)ヒトにおいて時計遺伝子(Per2)の点変異が睡眠覚醒障害(ASPS)という行動異常を起こすということで、「遺伝子」と「脳機能」の関係が未だ「風がふけば桶屋がもうかる」状態とはいえ、「風」と「桶屋がもうかる」ことは確実につながっていることが証明されている点等で、リズム研究は今やニューロサインエンスのいちマイナーな分野から現代生物学の一つの流行分野になりました。

ここOBIに移ってから約2年がたちますが、その間にもヒトゲノム計画は終了し、我々の染色体コードは今やすべてコンピューターの中にある時代になりました。私の「脳機能」の興味の対象はより複雑な高次なものとなり、新しいプロジェクトを始めました。ちょっと斜に構えていえば「遺伝子で人の心が語れるか」という問題です。一昔前は、マスコミ的にどこかのバラエテイー番組にしか通用しなかった問題も、今やまじめな研究課題と小さな声では言えるようになりました。ただ、正直言ってこの二年間やってきてわかったことは、やはりアプローチがなかなか難しいということです。最大の問題点は、「記憶・学習」における「LTP/LTD」といった一応認められた一部を除いて(といっても、「記憶・学習」と「LTP/LTD」が本当に直接結びついている証拠は今でもないと思いますが)、的確な定量的アッセイ系がないということです。この状況の中ではいくらこれぞ「候補遺伝子」といってノックアウトマウスを作ろうが、証明するアッセイ系がないわけです。現存のアッセイ系で従来のreverse geneticsでは限界があります。Forward geneticsを考える場合、精神疾患が標的になる訳ですが、精神科は残念ながら臨床医学の中でも客観的診断方法に乏しい分野です。さらに統合失調症や躁鬱病のようなメジャーな精神疾患は、多因子疾患でアプローチが難しいということです。確かに癌のように多因子疾患であるかもしれませんが、癌遺伝子のように遺伝子の関与は明らかであり、ひょっとするとASPSのように単一の遺伝子で起こる精神疾患もあるかもしれません。我々が現在とっている第一の方法は、精神疾患の生物学的異常に注目して、現在の発生工学を駆使し、forward geneticsのスターテイングマテリアルとなるモデルマウスを作ろうというものです。未だ作製中で、なんら紹介できる結果は持ち合わせておりませんが、近い将来この欄でも紹介できることを期待しています。

よしも悪しきも、OBIには年一回のadvisory board meetingがあり、恐ろしい?偉大な外部の先生方の前で一年間の成果を報告しなくてはなりません。そこで?前述の私の持論とは矛盾するのですが、reversegeneticsによるアプローチを第二の柱として「候補遺伝子」を探すことを行い、機能解析結果の一つとして「神経樹状突起の細胞生物学」という問題点にたどりついています。樹状突起は細胞核周辺から遠く離れたところで蛋白合成を行う所として、またこのことが神経可塑性と関係しているのではないかということで、細胞生物学的にも神経科学的にも興味深いテーマかと思います。さらに、今はまだ手をつけていませんが、上記マウスのできる頃には、イメージングとコンピューターサイエンスを組みあせた神経回路のアッセイシステムの開発といった未だ夢のようなプロジェクトにも挑戦できるような余裕ができればと思っています。いずれにせよ、新しいものへの挑戦には若い力が必要です。我々が行っているのは実験科学であり、ベンチサイドに元気な若い人が必須です。このことは、PIになって本当に強く感じるようになりました。「人間長いようで短い人生」なにがしかロマンを見つけて生きたいものです。若いやる気のある方々からのご連絡をお待ちしています。

内匠 透