国立移管後の旧解剖学第一講座の歩み

神戸大学大学院医学系研究科
生理学・細胞生物学講座神経発生学分野
教授 寺島俊雄

 神戸医科大学が国立神戸大学医学部に移管が開始されたのは1964(昭和39)年4月であった。当時の解剖学第1講座(現脳科学講座神経発生学)のスタッフは、教授武田創(はじむ)、助教授中村和成、講師山鳥崇、助手川崎明義、金剛博、竹田圭次の6名であった。1966(昭和41)年8月には、武田創教授を会頭に神戸市にて第71回日本解剖学会総会が開催された。これは神戸市において初めての解剖学会であり、また神戸大学医学部になってからの最初の全国的な総会であった。1967(昭和42)年6月、西ドイツ・フライブルク大学と米国ニューヨーク州立大学への留学を終えた山鳥講師は弘前大学医学部解剖学第1講座の助教授として転出し、さらに1970(昭和45)年11月、照井精任教授の後任として同講座の教授に昇任した。山鳥は、弘前大学に中枢神経系の実験的研究法を導入するとともに、脳室壁の走査電子顕微鏡による研究を行いこの分野において先駆的な業績を挙げた。以後、神戸大学に転任するまで、山鳥は弘前の地で数多く業績を挙げ、また熱心な教育者として学生の信望を集めた。

 
1972(昭和47)年、梅谷健彦が大学院生として入室した。この頃の解剖学第1講座はまさに隆盛期ともいうべき頃で、武田教授、中村和成助教授がともに教室の最前線に立って多くの大学院生や研究生を指導した。その中村は、1961(昭和33)年より18年間、助教授として解剖学教室の屋台骨を支えていたが、1976(昭和51)年4月、島根医科大学の創立時に解剖学第1講座の初代教授として転出した。中村は、変性鍍銀法のNauta‐Gygax法を用いて神経回路網を研究するとともに、神経系の異常発生の研究を志向し、その成果をまとめて臨床人体発生学(南江堂)を著した。また行動奇形と形態学的発達を結びつけるために電子顕微鏡による研究、特に酵素細胞学的手法、あるいは実験心理学的手法により多数の業績を挙げた。1981(昭和56)年9月、中村はガンにより業半ばにて永眠した。

 
1980(昭和55)年3月に35年間教授を勤めた武田創が退官した。武田は、1941(昭和16)年12月に京都府立医科大学を卒業し、直ちに同大学副手に採用され、助手、講師を経て、昭和19年月兵庫県立医学専門学校の講師として着任した。第二次世界大戦終結後、1945(昭和20)年10月、武田は兵庫医学専門学校教授となり、兵庫県立医科大学教授、神戸大学教授を経て1964(昭和39)年4月神戸大学教授となった。この37年間の間に、武田は1955(昭和30)年に第2解剖が創立されるまでは全ての解剖学の教育を担当し、第2解剖の創立後は肉眼解剖学と神経解剖学の教育を担当した。武田は、当初は人類学や組織化学の研究を行っていたが、その興味は次第に脳内の核の大きさ、形態、発生を中心にした比較解剖学的研究に移っていった。中でも武田の興味は小脳に集中し、各種動物やヒトにおける小脳核の発達や形態を定量的に研究した。武田の小脳核の研究は、梅谷に引き継がれた。梅谷は1976(昭和51)年に助手として採用され、1977(昭和52)年講師、さらに1982(昭和57)年に助教授に昇任した。梅谷はビオサイチン、放射性アミノ酸、ワサビ過酸化酵素などのトレーサーを用いて小脳核と前庭神経核との結合を詳細に研究した。その後、1998(平成10)年3月、梅谷は医療行政に転じ、西脇・加西健康福祉事務所長等を歴任し,現在,兵庫県保健所長会会長として活躍している。

 
1980(昭和55)年10月、弘前大学医学部より山鳥崇が母校に迎え入れられて武田の後を継いだ。山鳥は、教育・研究面でその多彩な才能を発揮した。教育面では実習に重点をおき、1989年に金原出版より「実習で学ぶ解剖学」と「実習で学ぶ骨学」(後者は梅谷と共著)の2冊のテキストを上梓した。研究面では小脳の比較解剖学をメインテーマとする第1解剖の中で、独力でヒト視床核の発生の研究を進めた。さらに弘前大学在任中に新しい変性鍍銀法(山鳥法)を開発し、この方法を用いてラット視覚系の研究を行った。特に副視索系の終止核についての業績は解剖学の教科書に頻繁に引用されている。また放射性同位体で標識した2-デオキシグルコース法(14C-DG)を用いて視覚系の代謝活性を直接可視化することに成功した。さらに梅谷助教授、中村助手、杉岡助手等と共同して、条件反射付けに関連する脳内反応部位を14C-DG法により解析した。この研究は、現在多くの研究者が注目している情動系の脳内回路を明らかにすることを目的としたもので、当時としては極めて先駆的な試みであった。さらに弘前大学在任時より開発していた山鳥式脳室鏡(ファイバースコープ)に改良を加え、脳室下器官や脈絡叢の研究を行った。また山鳥は多くの外国人留学生を教室に迎え入れ、蛍光色素を用いた多重標識法による網膜神経節細胞の側枝分枝の研究を行った。その外国人留学生の一人董凱は助手に採用された。山鳥崇は、阪神淡路大震災の際に危機に陥った医学部を、医学部長として陣頭に立って救った。山鳥は1996(平成8)年3月に定年退職し、姫路獨協大学に転出した。

 およそ1年半ほどの空白をおいて、
1997(平成9)年7月より東京都神経科学総合研究所の寺島俊雄研究員が、山鳥の後任として教授となり現在に至っている。寺島は、大脳皮質形成の形態的、分子的基盤を明らかにすることを教室のテーマとして掲げている。2001(平成13)年4月、部局化に伴い、解剖学第1講座は脳科学講座(神経発生学分野)として再スタートを切った。現在の陣容は、教員として教授寺島俊雄、助教吉川知志,助教勝山裕の3名、技官として薛富義、崎浜吉昭の2名、事務補助員として増瀬恵である。また杉岡幸三講師は平成194月に姫路獨協大学薬学部教授として転出後も,客員教授として解剖学教育の一部を負担している。

 最後に、解剖学第1講座に事務局をおく神戸大学のじぎく会の沿革について記す。神戸大学医学部は創設以来昭和
40年代に至るまで、あまり解剖体に不自由することはなかった。しかし40年代に入って医大の新設ラッシュを迎えるようになり、また学生定員も80名から100名に、さらに120名にと増やされるに及んで、他の大学と同じく解剖体の不足をきたすようになった。このため篤志家を集めたグループが出来たが、その数が130名あまりになった時点で「神戸大学のじぎく会」が結成された。1975(昭和50)年6月のことであった。当時会長は大畑忠太郎、副会長は人位秀男であった。以後会員は毎年少しずつ増加していたが、1982(昭和57)年から1983(昭和58)年にかけて急激に増加するようになった。これは会の運営が軌道に乗り始め会員獲得運動が活発になったこと、献体法が制定されたこと、献体者に対して文部大臣の表彰などが始まったこと、献体の精神がようやく社会に受け入れられるようになったこと等によると思われる。この頃の会長は人位秀男であった。その後、医学部学生の定員削減などもあり、のじぎく会三代目会長豊田喜唯のもとで、会の目的を会員の獲得から会員の相互親睦と健康の維持に変更された。また同時に平成元年度からのじぎく会の年間登録者数を200名に限定し、のじぎく会会員以外の献体はお断りするということになった。さらに平成9年より予備登録制度を開始し、年間50名の新規加入に限定した。1998(平成10)年10月より田中登美子氏が第四代のじぎく会会長に就任し、さらに20054月より稲田邦夫氏が会長職につき,現在に至っている。例年、11月中句に年1回の総会を開き、毎年300名程度の会員の参加がある。この機会にすでに献体して下さった諸霊に対して、あらためて感謝の意を捧げる次第である。

追記:解剖学第一講座の初代教授であり,神戸医大,神戸大学医学部を通じて37年間の長きにわたり教室を主宰された武田創教授が平成2029日に永眠され(享年91歳)、平成20年3月7日に正四位の叙勲が授けられた。草創期のご苦労を偲び,また小脳核を中心とする膨大な比較解剖学研究に対して敬意を表して,擱筆することとする。

平成20316日作成