研究内容
 
分子生物学分野では、癌の発生メカニズムを解明し、それに基づき革新的な癌治療薬を開発することを目指した研究を行っている。特に、細胞増殖や分化を調節する細胞内シグナル伝達系を構成する低分子量G蛋白質 Ras ファミリー(最も重要な癌遺伝子ras の産物 Ras や Rap1 など)や Rho ファミリー (Rac1など) を主要な研究対象とし、核磁気共鳴法(NMR)やX線結晶構造解析などの原子レベルでの立体構造解析とそれに基づくインシリコ創薬から、遺伝子操作マウスを用いた個体レベルでの機能解析に至る幅広い方法論を駆使する点が特徴である。具体的な研究内容を以下の(1)~(4)に示す。
(1) ras癌遺伝子産物(Ras)の立体構造遷移の分子機構に関する研究

31P-核磁気共鳴 (NMR) 解析により、GTP結合型Rasは、標的蛋白質との結合能力を持つ”活性型”(state 2) と持たない”不活性型” (state 1) の間を構造遷移する事が分かっていたが、state 1の立体構造は未解明であった。我々は、SPring-8を用いたX線結晶解析と多次元NMR解析により、Rasのstate 1の立体構造の決定に世界で初めて成功した。State 1の分子表面には、state 2には存在しない薬剤結合部位となりうるポケット構造が存在した。さらに、Rasの様々な変異体の立体構造を決定することにより、state 1とstate 2の遷移の詳細な分子機構の解明に成功し、Ras阻害薬のインシリコ創薬に向けた新しい方法論を提示して海外特許を出願した。

※下の画像をクリックすると GTP 型 Ras の立体構造遷移から得られる情報をご覧になれます。
M-Ras-GTPのSpace Filling Model

(2) ras癌遺伝子産物(Ras蛋白質)を分子標的とした抗癌剤の開発研究

Rasのstate 1の分子表面ポケットに嵌入してstate 1を安定化する低分子有機化合物がRasの機能を阻害することにより抗癌剤となることを提唱し、このような化合物のインシリコ創薬(コンピュータ計算に基づく薬剤開発)を目指した研究を推進した。State 1の立体構造に基づき、そのポケットに嵌入する低分子有機化合物を、250万種類の化合物を含むバーチャルライブラリーからインシリコ・ドッキング解析によりスクリーニングし、予測結合親和力が上位の化合物を1500個選抜し、この中から試験管内測定によりRasのRaf結合能力を強く阻害する複数の化合物の同定に成功した。さらに、有機化学合成による化合物の構造展開を進め、IC50 = 10-6 Mで培養癌細胞の足場非依存性細胞増殖を抑制し、ヌードマウスに移植したヒト大腸癌(K-ras癌遺伝子に活性化変異を持つ)に対して強い腫瘍増殖抑制効果を示し、低毒性かつ経口薬適性に優れた複数のリード化合物を同定して化合物特許を出願した。
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☆大型放射光施設SPring-8のHP内『ひかりのひろば』にも、一般の方向けの記事として掲載されています☆

※下の画像をクリックするとインシリコ(in silico)創薬をご覧になれます。
M-Ras-GTPのSpace Filling Model
 
 

(3) Ras/Rap1の標的蛋白質ホスホリパーゼCε(PLCε)の生体内機能解析に関する研究

我々が発見した、RasとそのホモログRap1によって活性制御を受けるPLCεの遺伝子マウスノックアウトマウスが、化学発癌剤DMBAによるイニシエーション(ras癌遺伝子を活性化)とホルボールエステルTPAによるプロモーションを用いた二段階皮膚化学発癌に強い抵抗性を示すことを2004年に報告したが、このマウスがTPA処理により誘導される炎症反応に強い抵抗性を示すことから、PLCεがサイトカインの発現誘導を介して炎症反応を増強し、発癌プロモーションを促進することを示した。さらに、APCMinマウス腸腺腫モデル等の他のマウス発癌モデルや接触性皮膚炎モデルや気管支喘息モデル等のマウス炎症誘導モデルを用いて、PLCεが発癌と炎症において普遍的な役割を持つことを証明した。さらに、皮膚の角化細胞でPLCεを過剰発現するトランスジェニックマウスが、ヒトの尋常性乾癬に酷似した慢性皮膚炎症を発症することを発見した。これらの成果は、PLCεが抗癌剤あるいは抗炎症薬開発の格好の分子標的になる可能性を示唆しており、PLCεを分子標的とする抗癌剤および抗炎症薬開発について、基本特許を出願済みである。

※下の画像をクリックすると Apc 遺伝子異常による発癌のPLCε欠損による抑制効果に関する実験データをご覧になれます。
PLCεノックアウトマウスを用いた皮膚化学発癌実験の解析結果

 

(4) Rap1グアニンヌクレオチド交換因子RA-GEF-1とRA-GEF-2の生体内機能解析に関する研究

我々が発見したRap1のグアニンヌクレオチド交換因子、RA-GEF-1 (Rapgef2) とRA-GEF-2 (Rapgef6)の遺伝子ノックアウトマウスを世界に先駆けて作製し、その生体内機能を解析した。RA-GEF-1の全身でのノックアウトマウスは、胎生期血管形成不全による胎生致死を、背側終脳特異的ノックアウトマウスは、発生過程での神経系前駆細胞の分化・増殖の異常によるヒト皮質下帯状灰白質症(ダブル皮質症候群)と類似した表現型を示した。RA-GEF-2 (Rapgef6) の全身でのノックアウトマウスは、Bリンパ球のインテグリン依存性接着の異常と精子形成異常による雄性不妊を示した。ノックアウトマウスの作成は饗場教授と、脳神経系の表現型解析は寺島教授との共同研究である。なお、RA-GEF-2(及びRA-GEF-1)は、ヒトでは統合失調症患者でcopy number variationを示す遺伝子として報告されており、我々がRA-GEF-1背側終脳特異的ノックアウトマウスで神経系の発生異常の表現型を見い出したことから、世界的に注目されている。

 ※下の画像をクリックすると背側終脳特異的 RA-GEF-1 遺伝子欠損マウスに見られる異常をご覧になれます。
Ha-Rasの5アミノ酸置換による細胞内局在の変化